ヨシダ工業株式会社代表取締役社長

吉田 俊博

Toshihiro Yoshida

No blesse Oblige

吉田 俊博

略歴

兵庫県立姫路工業大学機械工学科卒業。3年間、京都市の機械メーカーに就職。退職した後、1年間、西ドイツハンブルク市の商社で主に眼鏡を経験。1976年に帰国しヨシダ工業(株)へ入社。1991年9月に代表取締役社長就任。現在に至る。

現在の仕事についた経緯

長男に生まれて、周りからは何となくゆくゆく後を継ぐのだという期待を感じていたが、就職時にも言及がなく、自分の意志で京都市の製造メーカーに入った。
戻る直接のきっかけは、3年目の秋、たまたま帰省した時、家の様子が少し変だなと感じ、聞いてみると、父が倒れ入院しているとの事だった。現状では、安定しているものの一時は大変だったらしく、その冬の正月に帰った時には、親戚や会社幹部から、そろそろ戻ったらと言われた。急な事でもあり、今の会社にも不満もなかったので一旦は保留にしたが、京都に戻った矢先、会社が人員整理を発表した。所謂、ニクソンショックによる不況の影響を受けたものだった。中堅以上の社員が肩たたきの対象となり、多くが退職を余儀なくされている状況をみて退職を決断した。折しもその話を聞いてくれた会社の幹部の叔父がドイツ在住の知り合いに受け入れを頼んでみるとの話に、退職をなかなか認めてくれなかった元の会社の上司も折れて、私のサラリーマン生活に終止符を打つ事になった。

仕事へのこだわり

創業した眼鏡部品製造は、鯖江産地が全国の枠生産の90%以上のシェアを持ち、県内だけでもビジネスが可能な環境にあった。しかも戦後からの高度成長の波に乗り、私が入社した頃は、製品製造に於いて業界のリーディングカンパニーの一翼を担っていた。その様な中で常に頭をよぎったのは、二代目としての役割は何か、会社をどうしたいのか、という事だった。高校までは県内で過ごし一度は外の空気も吸ってみたいとの想いで地元を離れての約8年の生活は、人的にも、ものの考え方でも多様性を与えてくれたと思っている。
 会社を更に発展させるためには、県外の企業との取引を、出来れば上場会社との取引をする事で、レヴェルの向上が図られるのではないかとの考え方に至った。眼鏡部品製造の技術でどの様な分野の業界に食い込めるのか疑心暗鬼ではあったが、当時の弊社は高級ライター部品を請け負っていて、その技術で逆に眼鏡の金属用部品の高度化が成功していた。今思うと、異業種へのチャレンジ精神は弊社のDNAだったのかもしれない。眼鏡分野では、先駆けてロストワックスの技術を導入したものの先を行き過ぎて結局断念したけれど、様々な技術にトライしていた。しかし、ライター部品も100円ライターの登場と共に市場から去り、私が入社する直前には生産は終わってしまった。そんな事もあり、フィールドを拡げる為には、依頼を受けた新規の案件(仕事)に対しては貪欲に取り組み、直ぐには断ることのない様言い続けた。そんな折、楽器業界及び10年程の後の医療分野との接点が出来た事は幸運だった。いずれの分野への参入もすんなりとはいかなかったが、顧客先が納得の品質にトライしたことが評価され事業拡大につながっていった。その後、良い製品を提供する事の大切さを弊社創立50周年を機に策定した経営理念に掲げ現在に至っている。

若者へのメッセージ

入社式での常套句になっているが、‟皆さん方はあまたの企業の中から当社を選び、我々はその中から選抜し限られた人達に採用決定を出している。私は、この皆さんとの出会いは正にご縁であり神技に近い。だからこそ、このつながりを大切にしていきたい”と。社会人としてのスタートを切る若者は前途に大きな夢を持っている。80有余年の人生の中で企業生活は、今や50年に届く状況だ。自らの人生を考える時、スキルを磨き目標が適えられる仕事に出会うかどうかは重要である。企業は人なりと言われる。人が少ないのが中小企業であり、だからこそ一人一人の存在は大きい。我が社には彼らの能力や個性を発揮してチャレンジできる環境が整っている。我々はその手伝いをしていきたいと考えている。そして、ヨシダ工業に入社して本当に良かったと終生思われる会社経営に努めたいと思っている。それには、失敗を恐れず絶えずチャレンジする。同じミスを何度もする事は許されないが、失敗は成功の必要条件である。金太楼アメではなく、他人との差別化にこだわる事!オリジナリティを持つ事!自分だけの強みを大切にする事!勇気を持って出る杭になる事!そして、あくまで謙虚である事!
若者は大いに会社を利用すればいいと思っている。人生は楽しくなければならないのだから・・・。