株式会社アズヴィン代表

峯 照彦

Teruhiko Mine

ピンチはチャンス

峯 照彦

略歴

1967年生まれ、茨城県結城市出身。「夢」を求めて18歳で上京。3社3様の社長の基、経営学を学び、2012年10月に独立、2014年3月に法人設立。現在に至る。

現在の仕事についた経緯

実家は専業農家で家族も多く、決して裕福とは言えない環境の中で育ちました。いつかはこの貧困から抜け出したいと子どもの頃から思っており、東京に行けばチャンスはつかめると思い込み、高校卒業と同時に起業家を夢見て18歳で上京しました。上京後2年間は情報処理の専門学校に通い、ソフトウェア開発の基礎を学びました。今考えると、高3の夏、進路に悩んでいた私に進路指導の先生がアドバイスしてくれた何気ない一言、「これからは、コンピュータが必要な時代が来る」が私の人生を大きく変えることになりました。言葉で言い表せないくらい、いまだにその先生には感謝しております。
専門学校卒業後はメーカー系ソフトウェア開発会社に入社。独立するまで、3社3様の社長の基、エンジニアとして、一方で経営学を教えていただきました。その御恩を胸に抱き、今度は「私の番!」と設立した会社では従業員の「夢」の実現を支援する立場として汗を流しております。

仕事へのこだわり

専門学校を卒業後、最初にお世話になった会社はメーカー系のソフトウェア開発会社でした。当時、エンジニアと言えば、メカ屋、エレキ屋(ハードウェア)が社会的に知名度も高く、花形でした。一方ソフト屋は知名度も低く、世間では”おたく”とか”ネクラ”などと揶揄されていました。当時はものすごく悔しい思いをしておりましたが、いずれソフト屋の時代が来ると信じこれまで頑張ってきました。
あれから30年が経ち、ソフトウェアが社会を大きく変え、ソフト屋の知名度も大きく高まりました。ただこの状況に驕ることなく、また謙虚さも忘れず、これからも社会情勢の変化に少しでも貢献できるソフトウェアを開発し提供していきたいと考えます。

若者へのメッセージ

人にとって幸せの定義は様々です。人生の終活期にそれまでの人生を振り返ってみて初めてわかることと思います。バブル崩壊前の高度成長時代は、定年まで会社に勤め、定年後は有事的に第二の人生を謳歌することが幸せの定義でした。ある意味、国や企業が幸せを保障してくれていた時代とも言えます。それがバブル崩壊で一変。企業はコスト削減の名のもとに、終身雇用・年功序列を廃止し実力主義を導入。従業員に対して高い専門性を持ち、経営センスを身に付けることを要求してきました。いわゆる、「一億総プロフェッショナルの時代」です。
こうなると、会社勤めがよいのか、思い切って独立した方がよいのか、会社勤め一辺倒だった時代と比較すると、独立・起業という選択肢も出てきます。どちらを選択するかはあなた次第ですが、このピンチをチャンスととらえ、若いみなさんには、人生の終活期に一人でも多くの人が人生を振り返って「幸せだったな!」と感じてほしいと思います。