株式会社コマイ 代表取締役
駒井 和彦
Kazuhiko Komai
現在の仕事についた経緯
もともと弊社は、私の祖父が起こした会社なのです。それは1952年ですから、戦後すぐですね。元来、祖父は学校関係の仕事をしており、「国を立て直すのにはまずは教育から」と考えておりました。そこから祖父は、教育現場に貢献できる企業をつくったのです。
そもそも弊社は、製造業というより、商品をつくる側と使う側をつなぐ流通業でした。ですから創業の精神は「教育産業」ということになります。
さらに2代目社長は私の父でした。この時点で弊社はものづくりを中心とする製造業に転換します。理由は創業者の祖父が営業としては優秀すぎたため、2代目、3代目もそれを継続するのは困難と判断したからです。
とにかく工場が残ればいい、会社が大きくなるよりも、永続するようにという発想でした。そんな環境で育った私も、幼少期から「自分は後を継ぐことになるんだろうな」と、漠然と考えていました。また自社が学校のまわりにあるものをつくっているということは、私の誇り、やりがいにもなりました。
そうして大学卒業後、社会勉強のようなかたちで他社に就職した後、弊社に入社の運びとなったのです。このときは父が専務、祖父が社長でした。これは従業員30名ほどの中小零細企業でしたが、私は入社していきなり部長になりました。私が24歳のときです。このとき学校へ、飛び込み営業で黒板を売るということをしましたので、ずいぶん度胸がつきました。
私が入社したのは1996年でしたが、2000年夏に父と祖父が交代したことで、私が常務となりました。このとき私は、後継者として人事、管理を経験することになります。そして2011年末に父が他界したのですが、その直前に私は父のポジションを継いで、現在へと至ります。
そもそも弊社は、製造業というより、商品をつくる側と使う側をつなぐ流通業でした。ですから創業の精神は「教育産業」ということになります。
さらに2代目社長は私の父でした。この時点で弊社はものづくりを中心とする製造業に転換します。理由は創業者の祖父が営業としては優秀すぎたため、2代目、3代目もそれを継続するのは困難と判断したからです。
とにかく工場が残ればいい、会社が大きくなるよりも、永続するようにという発想でした。そんな環境で育った私も、幼少期から「自分は後を継ぐことになるんだろうな」と、漠然と考えていました。また自社が学校のまわりにあるものをつくっているということは、私の誇り、やりがいにもなりました。
そうして大学卒業後、社会勉強のようなかたちで他社に就職した後、弊社に入社の運びとなったのです。このときは父が専務、祖父が社長でした。これは従業員30名ほどの中小零細企業でしたが、私は入社していきなり部長になりました。私が24歳のときです。このとき学校へ、飛び込み営業で黒板を売るということをしましたので、ずいぶん度胸がつきました。
私が入社したのは1996年でしたが、2000年夏に父と祖父が交代したことで、私が常務となりました。このとき私は、後継者として人事、管理を経験することになります。そして2011年末に父が他界したのですが、その直前に私は父のポジションを継いで、現在へと至ります。
仕事へのこだわりと目標
私の仕事は、お客様より「おカネをいただく」ことを重視しております。というのはお客様にとっては、「おカネを払ってでも、弊社にやってもらいたいことがある」ということだからです。
ですから家具の製造も、「買っていただいて、満足してもらう」ということを自分のプライドにしております。
また経営については、仕事ではお客様第一の立場をとっていますが、それにより社員のみなさんが犠牲にならないように、気を配っております。これは私が尊敬する稲盛和夫氏の「物心両面の幸せ」という理念を反映させたものです。
基本的に社員のみなさんは、仕事で自己実現ができればいいのです。そこに会社の方向性どおりに仕事をしていただくのですから、「自分は教育産業にたずさわっており、やりがいを感じる」ようになっていただきたいのです。なぜならその業務は、確実に世の中の役に立つものだからです。
人を変えることはできませんが、その人の関心を向けるような努力は、いつも払っております。
つまり私は、「お客様いちばん」と「従業員いちばん」をバランスよく両立させたいのです。
正直、会社を継いだときには、先のことなど考えてもみませんでした。ところが10年間、社長を務めると、いろんなことが見えてきました。
現在私は50歳で、会社は創業70年です。すると会社創業が100年になたっときには、私は80歳になっています。私にはそのように100年、200年先まで生き残っている企業にしたいという想いがあります。
弊社では小学校から老人ホーム、病院に至るまで、公共の場での仕事を多くいただいております。そうした場での未来を明るくするのに貢献したいと、私は考えております。
そもそも弊社は、父の代まで社名は「KOMAI」でした。しかし私が社長に就任して以来、「COMAI」 に変更しました。この「C」は「カンパニー」を意味し、社会の公器を目指すという願いが込められているのです。
また100年企業を目指すからには、私の一族以外の人が経営にたずさわることも考えています。すると「人を育てる」=「育成」ということが重要となります。その際に、性格が合わないからとバッサリと人材を斬るのは、あまりに短絡的です。たとえ合わない部分があっても、付いてきてくれるなら、良しとすべしです。これは「鳴かぬなら 鳴くまで待とうほととぎす」の心境です。
ですから家具の製造も、「買っていただいて、満足してもらう」ということを自分のプライドにしております。
また経営については、仕事ではお客様第一の立場をとっていますが、それにより社員のみなさんが犠牲にならないように、気を配っております。これは私が尊敬する稲盛和夫氏の「物心両面の幸せ」という理念を反映させたものです。
基本的に社員のみなさんは、仕事で自己実現ができればいいのです。そこに会社の方向性どおりに仕事をしていただくのですから、「自分は教育産業にたずさわっており、やりがいを感じる」ようになっていただきたいのです。なぜならその業務は、確実に世の中の役に立つものだからです。
人を変えることはできませんが、その人の関心を向けるような努力は、いつも払っております。
つまり私は、「お客様いちばん」と「従業員いちばん」をバランスよく両立させたいのです。
正直、会社を継いだときには、先のことなど考えてもみませんでした。ところが10年間、社長を務めると、いろんなことが見えてきました。
現在私は50歳で、会社は創業70年です。すると会社創業が100年になたっときには、私は80歳になっています。私にはそのように100年、200年先まで生き残っている企業にしたいという想いがあります。
弊社では小学校から老人ホーム、病院に至るまで、公共の場での仕事を多くいただいております。そうした場での未来を明るくするのに貢献したいと、私は考えております。
そもそも弊社は、父の代まで社名は「KOMAI」でした。しかし私が社長に就任して以来、「COMAI」 に変更しました。この「C」は「カンパニー」を意味し、社会の公器を目指すという願いが込められているのです。
また100年企業を目指すからには、私の一族以外の人が経営にたずさわることも考えています。すると「人を育てる」=「育成」ということが重要となります。その際に、性格が合わないからとバッサリと人材を斬るのは、あまりに短絡的です。たとえ合わない部分があっても、付いてきてくれるなら、良しとすべしです。これは「鳴かぬなら 鳴くまで待とうほととぎす」の心境です。
若者へのメッセージ
最近の若い方を見て思うことは、ゆとり教育が是正されたからでしょう。芯があって努力できる方が多くなったように思います。
ただなにかと情報過多のこの時代、どうしても「となりの芝生は青く見える」と思ってしまう方が多いように感じます。
たとえば会社の状態が少しでも思わしくなく、残業やボーナス減額などが発生した場合、すぐに転職してしまう方が多いです。
まず「自分は何がしたいのか」をハッキリさせ、「石の上にも3年」の覚悟で、何事にも挑んでいただきたいと思います。
そうした意味では新人期間というのは、お給料をもらいながら、仕事を教えてもらえる時期ともいえます。現にベンチャー企業の社長たちのなかには、前の会社で学んだことを自己流にアレンジして、成功する人が多くいます。たとえば IT 企業でプログラミングを覚えて、そこから起業するとか。
何事も簡単にやるのではなく、学んだことが自分の血肉になるまでやってみましょう。
ただなにかと情報過多のこの時代、どうしても「となりの芝生は青く見える」と思ってしまう方が多いように感じます。
たとえば会社の状態が少しでも思わしくなく、残業やボーナス減額などが発生した場合、すぐに転職してしまう方が多いです。
まず「自分は何がしたいのか」をハッキリさせ、「石の上にも3年」の覚悟で、何事にも挑んでいただきたいと思います。
そうした意味では新人期間というのは、お給料をもらいながら、仕事を教えてもらえる時期ともいえます。現にベンチャー企業の社長たちのなかには、前の会社で学んだことを自己流にアレンジして、成功する人が多くいます。たとえば IT 企業でプログラミングを覚えて、そこから起業するとか。
何事も簡単にやるのではなく、学んだことが自分の血肉になるまでやってみましょう。